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言語音・言語音像・音韻についての覚書 [PC版ページへ]
2006/09/26 16:15

人間の口から発せられる音声には言葉の音声とそうでないものとがある。このうち言葉の音声は言語音と呼ばれる。また単語を表わすひとまとまりの言語音を語音という。ところで、耳から入ってくる音は言語音に限られるわけではないから、聴覚表象(音の知覚表象や音声表象)には言語音の表象以外のものも含まれる。言語を対象としてその聴覚表象のみを表わす語があれば記述が簡潔になって分かりやすいのであるが、特に言語音の聴覚表象だけを取り上げる語は存在しない。


語音の聴覚表象を表わすために前稿では何の断りもなしに音像という語を用いた。しかしこのようにするとすっきりとして分かりやすいことは確かである。そこで、今後は言語音および語音それぞれの聴覚表象を表わす統一した表記として言語音像、語音像を用いることにする。なお、過去の稿のうち「個別概念を運用する手がかりとしての音声表象(音像)」と「個別概念が介在する<表現⇒受容>過程」、「ソシュール言語学には個別概念が存在している?」についても、「語音の聴覚表象」を表わす語を語音像に統一した。

(注記) 私の知るかぎり、オーディオ関係でスピーカーの作る音の定位に関して音像という語が用いられることがあるが、それ以外では耳にしたことがないので言語関係で言語音像・語音像という語を用いても混乱はないであろう。

さて、言語音像について気がついたことを以下にまとめておく。

意識内に現われる言語音像は大きく分けると三種類ある。

一つは知覚である。知覚は知覚表象あるいは感覚表象とも呼ばれ一般には単に感覚(現に感覚器官がとらえている刺激)と呼ばれているものである。知覚の言語音像は耳から入った言語音が分析・統合されたものであり発声した者の声の性格や特徴が明瞭に現われていて非常にリアルなものである。

二つめは再現された言語音表象で、これは記憶された言語音像が想起されたものである(狭い意味の表象には知覚表象は含まない)。知覚を直ちに再現した言語音像や短期記憶を再現した言語音像は知覚同様にかなりリアルであるが、記憶された言語音像を再現したものの多くは、発声した者の声の性格を残してはいるもののかなりの部分が捨象されてしまっているために明瞭さに欠けている。とはいえ特殊な性格は依然として保持しているから誰の音声かを判別できるくらいの明瞭さは保っている。また、長期記憶から想起された言語音像であっても知覚をただちに再現した言語音像と同じようにかなり明瞭でリアルなものもある。

第三は本を黙読したり思考をしているときに現われる言語音像である(「思考言語」や「内言」と呼ばれる言語音像を含む)。これはかなり抽象度の高い言語音像であり、自己の言語音から抽象されたものと推察される――非常にわずかながら自己の言語音の特徴を保持しているように思える――が、非常にかすかであり声の質も中性的であるという点で第二のものとは明らかに異っている。私が思うに、これは音韻意識にもとづいて形成された模範音像(プロトタイプ)とでもいう言語音像である。

以上のことは語音像についてもいえる性格である。

上で「音韻意識」という語を用いたのは音韻規範が言語規範に属しているからである。音韻意識とは音韻についての規範意識という意味である。以前音韻についてこれを「概念的な音声表象」と書いたことがある。

このことから推察できるように私は音韻は言語音(言語音像)から抽象された概念であると思っている。つまり音韻は概念という形態の認識である。日本語でいえば、ある言語音が「ア」であると認識できるのはその言語音を聞いた人間の意識の中に、ある一定範囲の音声を「ア」という音声として判別する認識(ものさし)があるからである。このように音韻は、ある一定範囲の音声をある決まった種類の言語音として判別する認識(ある音声をある種類の言語音に属するものとして把握する認識)すなわち概念として個々の人間の意識の中に存在している。

そして、どのような範囲の音声をある言語音として認識するかはその社会を構成する人たちの間で自然に形成された約束ごとつまり規範である。言語音の判別についてのこのような規範的な認識が音韻と呼ばれているわけである。日本語の場合、個々の言語音は音節が単位となって構成されているから音韻の単位も音節単位の認識として存在している(日本語の場合、音節は111種あるから音韻も111種あるということになる)。

音韻は概念であるから非感覚的なものである。音韻は色の概念とよく似た性質を持っている(音も光も波動であるから似ているのは当然である)。たとえばある色を「赤」であると判断できるのはその人の意識のうちにある一定範囲の色を「赤」であると判断するものさしつまり赤の概念が存在しているからである。そしてどの範囲の色を赤と呼ぶかは音韻と同じようにある社会における言語規範として個々の人間が認識している。また、赤は概念であるから「赤」そのものという色が表象できないように、音韻も概念であるから /ア/ そのものという言語音像は表象できない。しかし、よく注意してみると「赤」といったときに意識のうちになんとなく想起される色があることに気がつく。同様に /ア/ といったときに意識内に形成される言語音像がある。上でこの言語音像のことを模範音像(プロトタイプ)と呼んだ。同様に「赤」といったときに意識のうちになんとなく想起される色は模範映像(プロトタイプ)なのである。このことは他の概念についても多少ともいえることである。たとえば「ネコ」といったとき、私の脳裏にはある猫のイメージが浮かぶ。これはかすかな映像であり特定の猫のイメージではない。これもまた模範映像である。

前の稿「個別概念を運用する手がかりとしての語音像」(改題)で、「よく注意してみると概念はなんらかの感覚的な手がかりをともなっている」と私がいったのはこの模範映像*のことである。概念は非感覚的なものであるから概念そのものを表象することはできない。しかし人間は非感覚的な概念を運用するために感覚的な模範映像*という手がかりを用いているのである。

* 概念にともなうプロトタイプ表象は視覚表象・聴覚表象だけではないから一般的には模範表象と呼ぶべきかもしれない

語彙規範の単位である語規範(語概念⇔語韻)における語韻もまた音韻と同様に概念という形態の認識*である。私はこの語韻とたがいに媒介しあう語音像について何度か書いてきたが、語音像のうち 個別概念(普/特)語概念(普)⇔語韻(普)語音像(普/特) という過程を経て形成されるものは(上で書いたように)模範音像である。したがって、思考に現われる言語音像は言語規範の媒介によって形成され個々の個別概念に結びつけられた個々の語音像(模範音像)の連なりなのである。そしてこれがソシュール派のいう「分節された音」=「言語」=「思考言語」の形姿である。

黙読の場合は、言語規範に媒介されて形成された個々の個別概念が個々の語映像(語の文字表象)と結びつけられ、同時に言語規範に媒介されて形成された個々の語音像(模範音像)がそれらに結びつけられるという、立体的な結合の連なりとして意識内に現われる(語映像から個別概念が形成されるのではなく、先に形成された語音像から個別概念が形成され語映像に結びつくという迂回的な過程をたどる場合もある)。いずれにせよ、語映像・個別概念・語音像の三者の結合は瞬間的に行われる。未知の語・概念の場合にはこの結合は成立しないし、漢字語の場合、読みが分からなくても意義が類推できれば語音像なしに語映像(文字表象)と個別概念だけが結合するといったことも起こる。〔この段落 追加(09/27)〕

* 語規範(語概念⇔語韻)つまりソシュールのいう「シーニュ・記号」はそれを構成している語概念(「シニフィエ」)も語韻(「シニフィアン」)もともにその形態は非感覚的な概念である。したがって言語規範の媒介によって語音像や個別概念(模範表象をともなっている)が形成される過程では、非感覚的な語規範(「シーニュ」)が介在していることを表象できない。その存在は語音像や個別概念が形成される過程を意識においてたどる以外に確かめる方法はないのである。しかし人間の意識のうちにそのような非感覚的な規範認識が存在しており、人間はその媒介によって言語の表現・理解をしたり、思考活動をしたりしていることは疑う余地がない。

また言語の表現過程・理解過程や、思考過程を媒介している規範は語彙規範(語規範の体系)だけではない。そこでは文法や語法、統語法等さまざまな規範が連携し媒介し合っているから、それらを一括して言語規範の媒介という言い方をするのがもっとも適切であろう(言語規範は総体としても概念的な非感覚的な認識である)。



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