ことばとは何か(3)――時枝誠記の言語観(PC版ページへ)

2006年11月06日17:06  言語>言語本質論

素朴な直観は存外に真理を言い当てているものである。古来、ごく普通の人々が現に話されている言語音声を〈ことば〉あるいは〈言語〉であると考えていたことは、多くの言語において〈ことば〉や〈言語〉を表わす語が「口」や「舌」を表わす語と関連する語であることからもわかる。

しかし、言語は表現され理解されるその背後に認識や規範の媒介といった複雑な過程、つまり人間の精神的・肉体的な主体的活動をともなっているから、いざ〈ことば〉とは何かと問われたときに、一言では言い表せない難問をつきつけられた思いがするのも確かなことである。

前稿前田英樹訳『ソシュール講義録注解』で触れた『ソシュール講義録注解』を読み進めながら、私はソシュールの言語観と対比する形で時枝誠記(ときえだもとき)の言語観を思い浮かべていた。

私が時枝の名を知ったのは三浦つとむを通じてである。何度も書いているように三浦は時枝の「言語過程」説を批判的に継承して緻密な「言語過程」説をうち立てた。三浦は時枝言語学の現象学的欠陥の部分には厳しい批判を加える一方で、時枝言語学の有する科学性を高く評価している。そして三浦は時枝学説の継承者であることを自ら、しかも誇りをもって任じていたと私には思われる。

ある意味で本質的な欠陥を抱えてはいるけれども、時枝の言語観は今もなお色褪せず私のうちにも生きている。その言語観を示すために時枝言語学の主著『国語学原論』(岩波書店・昭和十六年(1941年))からその「序」を以下に引用する。なお、引用にあたって旧仮名遣い・旧字体を新仮名遣い・新字体に改め、適宜ルビを付した。また送りがなを現用のものと一致させるために不足部分を()で補った。

時枝誠記『国語学原論』「序」

 私は本書に於(い)て、私の国語学研究の基礎をなす処(ところ)の言語の本質観と、それに基(づ)く国語学の体系的組織について述べようと思う。ここに言語過程説というのは、言語の本質を心的過程と見る言語本質観の理論的構成であって、それは構成主義的言語本質観或(い)は言語実体観に対立するものであり、言語を、専(もっぱ)ら言語主体がその心的内容を外部に表現する過程と、その形式に於いて把握しようとするものである。言語の本質は古来の謎であって、自然科学の勃興は、言語をそれ自身成長し死滅する有機体の如きものとして教え、社会学的見地は、言語を人間によって制作せられた一(つ)の文化財として説くのであって、人々は右の如き比喩的説明を以(っ)て、言語をそのように観(み)ることに慣らされてきた。しかしながら如上(じょじょう=上の如き)の言語観は、必(ず)しも言語の諸現象を普(あまね)く説明し尽(く)すという訳にはゆかない。言語に対する具体的な考察は、絶えず右の如き言語本質観に対する反省と批判とを求めて止まないのである。そこに言語研究の発展が見られるのである。言語過程説は、我が旧(ふる)き国語研究史に現れた言語観と、私の実証的研究に基(づ)く言語理論の反省の上に成立し、国語の科学的研究の基礎観念として仮説せられたものであって、いわば言語の本質が何であるかの謎に対する私の解答である。

 言語の本質が何であるかの問題は、国語研究の出発点であると同時に、またその到達点でもある。言語の本質の研究は、言語学乃至(ないし)言語哲学の課題であって、国語学は言語学の特殊研究部門として、国語の特殊相の実証的研究に従事すればよいという議論は、未だ国語学と言語学との真の関係を明(ら)かにしたものではない。言語学が、個別的言語を外にした一般的言語(そのようなものは実は存在しないのであるが)を、研究するものであるとは考えられないと同時に、国語学はそれ自体言語の本質を明(ら)める〔(注)明らかにする〕処の言語の一般理論の学にまで高められねばならないのである。国語学は決して言語学の一分業部門ではない。何となれば、国語学の対象とする具体的な個々の言語は、言語の一分肢でもなく、またその一部分でもなくして、それだけで言語としての完全な一全体をなすからである。それは花弁が植物の一部分であり、手足が人体の一部分であるのとは異(な)るものである。国語の特殊相は、国語自身の持つ言語的本質の現れであって、言語の本質に対する顧慮無くして、この特殊相を明(ら)かにすることは出来ないのである。このようにして、言語の本質が何であるかの問題は、国語学にとって、最初の重要な課題とならなければならない。しかも、国語学の究極の課題は、国語の特殊相を通して、その背後に潜む言語の本質を把握しようとするのであるから、言語の本質の探求は、また国語学の結論ともなるべきものである。このように見て来るならば、何処(どこ)までが国語学の領域であり、何処からが言語学の領域であるという風には考え得られないのであって、国語学は即ち日本語の言語学であるといわなければならないのである。

国語学は即ち日本語の言語学である」という主張はまっとうである。同様にフランス語の言語学・中国語の言語学・イギリス語の言語学…等々が確立されること、そしてその上に立って各言語に共通する普遍的な性格を研究対象とする一般言語学が確立するはずのものである。ソシュールの言語学はよく言って印欧語の言語学ではあるが、その対象を広げすぎたあまりに言語の具体的な姿を見ることを忘れている。

なお、時枝が批判している「社会学的見地」としては言語を社会制度としてとらえるホイットニー流の考え方を含むものである。このホイットニー的見地はソシュールがそれに依拠している考え方であって、社会制度を記号学的に解釈する構造主義の源流はここにある。

 さて以上述べたように、言語の本質の問題を国語学の出発点とすることには、方法論的に見て恐らく異論があり得ると思うのである。言語の研究を行う前に、言語の本質を問うことは、本末の転倒であって、本質は研究の結果明(ら)かにされるべきものである。従って言語研究者は、言語に於いて先(ま)ず手懸(がか)りとされる処の音声、意味、語法等の言語の構成要素についての知識を得ることが肝要であるとするのである。しかしながら、部分的な知識が綜合されて、やがて全体の統一した観念に到達するとしても、既に全体をかかる構成要素に分析して考える処に、暗々裏に言語に対する一(つ)の本質観即ち構成主義的言語観が予定されて居(お)りはしないか。私のおそれる処の危険は、言語の研究に当って、一(つ)の本質観が予定されていることにあるのではなくして、寧(むし)ろ白紙の態度として臨んでいる右の如き分析の態度の中に、実は無意識に一(つ)の言語本質観が潜在しているという処にあるのである。そして、かくして分析せられ、綜合せられた事実が、客観的にして、絶対的な真理を示しているかの如く誤認される処にあるのである。この危険を除く処の方法は、言語研究に先立って、先ず言語の本質が何であるかを予見し、絶えずこの本質観が妥当であるか否かを反省しつつ、これに検討を加えて行くことである。言語研究の道程は、いわば仮定せられた言語本質観を、真の本質観に磨(き)上げて行く処にあると思うのである。換言すれば、言語研究の使命は、個々の言語的事実を法則的に整理し、組織することにあるというよりも、先ず対象としての言語の輪郭を明(ら)かにする処になければならないといい得るのである。言語本質観の完成こそは、言語研究の目的であり、そしてそれは言語の具体的事実の省察を通してのみ可能とされることである。

上記は、形而上学でも形式主義的構成主義でもない時枝言語学の宣言であり、言語研究に対する時枝の科学的態度の表明である。

 今日、我々のもつ何等かの言語本質観は、凡(すべ)て歴史的に規定されたものであって、先ず我々は自己の歴史的に所有する処の言語本質観に対して、飽くまでも批判的であることが必要である。他方、我々は具体的な言語事実に直面することによって、この言語観の理論的是正と展開とに努力する必要がある。今日国語学の基礎とされている言語観は、その成立に二(つ)の契機を持っている。一(つ)は西洋言語学説の流れであり、他は旧い国語研究の伝統である。この両者の国語学に対する関係は、学問的に厳密に規定されなければならないのであるが、わけても国語を対象として、それによって国語の特質を考え、進んで言語の本質を把握しようとした旧き国語研究の伝統は、国語によって言語の本質を考えようとする国語学徒にとっては、最も重要な足場であり、手がかりでなければならない。嘗(かつ)て私の行った国語学史の研究は、幸(い)にも私に単なる抽象的な言語理論についてでなく、国語の具体的事実に即してこれを如何(いか)に考えるべきかの態度と方法とを示して呉れた。次に私は国語学史に現れた言語研究の特殊な態度及び方法と、その言語本質観を、西洋言語学の理論に比較しつつ、これをその必然の方向に展開さすことを企図した。そして私は、言語の本質を、主体的な表現過程の一(つ)の形式であるとする考(え)に到達したのである。言語を表現過程の一形式であるとする言語本質観の理論を、ここに言語過程説と名付けるならば、言語過程説は、言語を以(っ)て音声と意味との結合であるとする構成主義的言語観或いは言語を主体を離れた客観的存在とする言語実体観に対立するものであって、言語は、思想内容を音声或(い)は文字を媒介として表現しようとする主体的な活動それ自体であるとするのである。今この言語過程説を体系付ける為に、全篇を総論と各論の二編に分(か)ち、総論に於いては、先ず言語過程説を成立せしめる処の言語に対する根本的な観察の態度方法を明(ら)かにし、更に進んで言語過程説の妥当である所以(ゆえん)を、一方現今の国語学会に多大の影響を与えつつあるソシュール及びその流派の言語学説に対比し、他方それを国語学史上の学説によって根拠付けようとした。以上を以(っ)て第一篇総論とし、更に第二編各論に於いては、従来の構成主義的言語学の諸部門が、言語過程観に従って、如何に根本的に改められねばならないかを明(ら)かにする為に、具体的な国語現象に直面しつつ、これを新しい体系に組織することを試みた。勿論(もちろん)、思索や組織に於いて未熟、不備な点もあり、特に国語の歴史的研究及び方言的研究は、総論第十及び第十二項にその原理について触れたのみで、これを国語の外延的研究として除外したので、国語学の体系の全面的な建設にまでは到らなかったのであるが、それらの点については、更に将来の研究に俟(ま)つこととして、ここに私の到達し得た処を明らかにする為に、従来の断片的な研究に一応の整理を加えてこれを世に問うこととしたのである。…(略)…。

ことば・言語は表現であって、音声や文字として目の前に表出された現実的存在である。言語活動全般を称して言語と呼ぶ使い方もあるが、それは時枝が主張する「言語の本質を、主体的な表現過程の一(つ)の形式であるとする考(え)」が不明瞭ながらも人々のあいだに共有されているからであろう。しかし、そこまではいいとしてもさらに進んで「言語は、思想内容を音声或(い)は文字を媒介として表現しようとする主体的な活動それ自体である」というのは行き過ぎであろう。言葉・言語という語はその本来の意味「表現された音声・文字」を担うものとして使われるべきであると私は思うし、時枝の言うように「対象としての言語の輪郭を明(ら)かにする」ためには、言語学は具体的な言語表現を対象としてその研究を進めなければならないと私は考えている。しかし、人間の主体的な表現活動と理解活動つまり表現過程および理解過程総体の中で言語を考察し、その本質を明らかにすべしという時枝の科学的な研究態度はまっとうなものである。ことに言語活動を人間の主体的活動であるととらえる時枝の言語観は私の実感としてもごく自然なものであり、三浦つとむもそのような言語観に立って成し遂げられた時枝の言語過程説の研究成果を正当なものとして評価し継承したのであろう。

〔2007.03.28追記

時枝誠記『国語学原論』が岩波文庫という形で復刊されたようである。
時枝誠記『国語学原論』が文庫化」(『Logic Board ―どう考えるのが正しいか』)
今日の雑感4: 祝・文庫化/三浦理論への疑問」(『モノロゴス』)

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