ソシュール「言語学」とは何か(2)(PC版ページへ)

2006年11月20日14:41  言語>言語本質論

正直言って『ソシュール講義録』を読む気はほとんど失せてしまっている。ソシュール「言語学」とは何か(1)(2006/11/10) にも書いたことだがソシュールにとって「言語langueとは外部から遮断され閉じてしまった円環である。ソシュールは「単位の決定」が「言語学」の「全任務」であるといい(引用文)、「言語それじたい」の内部でそれを作り上げている単位を探し求める。つまり言語単位を定めるための手がかり(=価値・質の区切り)を与えてくれる分節の論理をソシュールは探し求めるのである。しかしこの探索は終りのない旅である。なぜなら、単位はソシュールが閉じたはずの円環の外部からやってくるものだからだ。つまり「言語それじたい」の内部に単位を求めるのは木によって魚を求める類いの不毛の営為なのである。しかもソシュールはそれを自覚していると思われる。

『ソシュール講義録注解』「11月30日 [単位の発生について]」(62ページ)

…ことばには音的素材が必要だから。この素材は、線状的なものだった。それをいつも区切っていなくてはならないだろう。諸単位が現出してくるのは、そのようにしてなのだ。言語学を実行する前から一般観念についてあれこれ言うのは、牛より先に犂(からすき)を持ちだすような転倒だ。けれども、必要なのはそうした転倒である! こんなわけで、私たちの観察は、不足か過剰のどちらかでしかないという欠陥にあえぐ始末となる。

上で、ソシュールがいっている「一般観念」とは個別概念から抽象される――ソシュール流にいえば個別概念から分節される――のを待っている普遍概念である。

上と同じ日の講義の中でソシュールはつぎのようにいっている。

『ソシュール講義録注解』「11月30日 [単位の発生について]」(59ページ)

 言語のこの性格から、記号の物質面は一種の混沌であり、それじたいでは形を持たないことがはっきりしてくる。これらのありかたを見いだしがたくしている原因のひとつがここにあるのだ。言語学の任務は、これらのあらゆる有効単位が現実に何であるかを決定することだろう。…言語学が行うこうした単位の決定は、たんにその緊急の任務というだけではない。もしそれができてしまえば、言語学はその全任務を成し遂げたことになるだろう。思考に対することば特有の役割は、音的、物質的手段たることにあるのではない。それは、思考と音の合一が不可避的に各単位に到達していくような、そういう性質の中間地帯を創りだすことにある。本来混沌とした思考は、分解され、ことばによって諸単位に配分されることで、いやでも明確になる。けれども、ことばは一種の鋳型であるなどという陳腐な誤りに陥ってはならない。それは、ことばを何か固定した堅固なものとみなすことだが、音的素材にしたってそれじたいでは思考と同じくらい混沌としている。鋳型どころではない。音を便利に使ったそのような思考の物質化などはありえない。そこにあるのは、思考-音が言語学の究極的単位としての諸区分を含んでいるという、どこか神秘的なこの事実である。音と思考が結合されうるのは、これらの単位によってでしかない。(ふたつの無定形なかたまり、水と空気の比喩。大気の圧力が変化すれば、水面は一連の諸単位に分解される。それが波=実質を成さない仲介の連鎖だ。この律動は、思考とそれじたいでは無定形なあの音連鎖との和合、何なら交配を表わすといってもいい。それらの結合は、一個の形態を生みだす)。言語学の領域で、かなり広い意味で共通領域と呼べるところは、分節あるいは「分肢」の領域である。それは、思考がそのなかで音をとおして意識を得るにいたるような肢体の諸部分をいう。こういった分節、こういった諸単位のそとでは、人は純粋心理学(思考)か音声学(音)をやるしかない。(p.59)

前田英樹は langue「言語」langage「ことば」parole「言葉」という風に表記し分けている。したがって、上記引用文中の「ことば」langage である。前田によれば langage は「人間が持つ潜勢的な能力(parole, langue を生みだす能力)」であって「言語活動」ではない。そして langageparole と同じ「個人的な言語」である。諸個人の有する個人的な langage が「社会的な言語」である「言語langueを生みだすとソシュールは考えている。ここに矛盾が現われている。なぜなら、ソシュールにとって「言語langueとは純粋に社会的な所与のものとして、個人が一切関与することのできない堅固な制度として個人に与えられているはずのものだからである。そしてこの矛盾こそが先に書いた「木によって魚を求める類いの不毛の営為」の真の原因である。

上記の引用文で描かれているのは、個人的な「ことばlangageが社会的な「言語」(言語単位)を生みだす「神秘的な」その過程である。ソシュールは単位(区分)の比喩として「」を用いているが、水面が分解された「一連の諸単位」(=「波」の連なり)とはなんであろうか。それは思考の中にすでに含まれている「究極的単位としての諸区分」である。そして諸区分が思考の中にすでに含まれている事実をソシュールは知っており、それを「神秘的」だといっている。つまり、水面を「一連の諸単位」に分解する「大気の圧力」の変化をもたらすものをすでに前提しているのである。その力こそは「ことばlangage(=「潜勢的な能力」)であり、その能力が「大気の圧力」を変化させ、「波」の連なりを生みだすと考えているわけである。

こうして、閉じた円環の裏口から単位の契機が持ちこまれる。そうでなければ「言語それじたい」の内部に諸単位相互の関係だけで生じるような単位など見つけようがない。いずれにせよ、このようにしてソシュールは絶えず生成・消滅する泡のような単位「一個の形態」(空気と水との共振)を見い出してふたたび円環を閉じる。そして、破綻などまったくなかったかのように取り繕い、「純粋心理学(思考)」と「音声学(音)」に残った重要な仕事を丸投げしてソシュールは不毛な探求をさらに続けるのである。これがソシュール「言語学」の性格を物語るすべてである。

ソシュールのいう「潜勢的な能力」「ことばlangageは、私の立場からいうなら人間の持つ概念化能力である(ディーツゲンはそれを「一般化能力」といっている)。それは個々の事物、事物相互の関係を個別概念(個別的概念)として捉える能力である。そして、思考の中にすでに含まれている「究極的単位としての諸区分」とは、思考のうちにすでに存在している個別概念群(ソシュールから見ればそれらから抽象されるべき普遍概念群)なのである。

このことはよく考えてみれば当たり前の事実である。対象と認識・思考の先後関係。概念と言葉の先後関係。論理構造(認識・概念)と比喩の先後関係。事物(ものごと)と言葉の先後関係。

ごく原理的にいうなら、概念化能力をもった人間の意識が対象と出会ってはじめて個別概念としての認識・思考を生み出すのであり、その個別概念を契機として発声能力をもった社会的な存在=類的な存在としての人間が言語と言語規範を生みだしたのである。そして、すでに言語が存在している社会に生まれた個人としての人間は、祖先が言語と言語規範を生みだした過程(系統発生)を社会の中で他者との交流を通じて個体発生として追体験するのである。

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